Profile
阪本 一成
西濃運輸 野球部(セイノービジネスサポート)
三重県出身 39歳
小学校4年生からソフトボールを始め、中学校・高校の野球経験を経て、昭和コンクリート工業に入社。2003年に西濃運輸に移籍し、2010年には都市対抗野球10年連続出場の表彰を受ける。2014年に優勝した都市対抗野球大会では打撃賞受賞の他、優秀選手にも選ばれた。また2014年の社会人ベストナインに選ばれる。
少年時代からプロ野球選手になることを夢見て大好きな野球を続けてきたが、社会人野球に身を置いた時には、一度は野球の道を諦めかけたこともあったという。しかし西濃運輸に移籍後から現在に至るまで、常にレギュラーメンバーとして活躍し、野球部を引っ張っている。
野球という勝負の世界において、レギュラーとして活躍するには常に結果を出し続けなければならない。そんな厳しい世界で、現役20年を超える現在でも若手選手の見本となる活躍をし続けている選手が今回紹介する阪本だ。
【人生を変えた野手の道】
阪本と野球の出会いは小学校時代に遡るわけだが、三重県で生まれ育った阪本が小学生の時は、ソフトボールが盛んで周囲で軟式野球をやっている者はほとんどいなかった。兄の影響を受け、小学校4年生になると学校のソフトボールクラブに所属し、授業終了後は毎日2、3時間の練習に明け暮れていたという。
「もともとピッチャーに憧れていて、目標としていた上級生のような選手になりたくてピッチャーをやっていました。当時の目標は全国大会での優勝でしたが、将来の夢はプロ野球選手になることでした」
小学生の時の練習は、泣いていた記憶があるほど厳しい練習だったらしいが、阪本が小学校6年生になった時、チームは全国大会3位に入賞するほどの強いチームであり、そこで彼はエースとしてマウンドに立っていた。
地元の中学校に進学し軟式野球部に入部した阪本は、ソフトボールとは違ったボールの大きさや距離感に戸惑いを感じたという。中学校1年生の時の練習は球拾いや基礎練習ばかりであったが、2年生になると少しずつ試合で登板する機会が増えた。しかし試合では、思うような結果が出せずに軟式野球の難しさを実感したというが、体格が良くなるにつれバッティングでは飛距離が伸びるなど、新たな野球の楽しさを発見する。
「バッティングは自信がありましたが、球威がなかったので投手としてはまったく駄目で、打たれた記憶しかありません。中学校3年生の最後の試合は、暑さにやられてとにかく投げるのが辛かったのを覚えています」 その後、阪本は選抜野球大会や甲子園出場の実績がある三重高校に進学した。中学校とは違う硬式ボールやバットの重量感、捕球の仕方にギャップを感じるだけでなく、中学校から硬式をやってきている同級生との差を阪本は痛感することになる。そんな阪本が入部して数ヶ月経ったある日の練習試合で相手打線に散々打ち込まれ、試合後に監督から呼び出されることになる。
「手を見せてみろと言われ、手の指が短いとたった一言だけ言われました。はっきり言われませんでしたが、お前は野手でいけと言われた感じがしました。ピッチャーへの未練はありましたが、素直に受け止めて野手に転向することを決めたのですが、この出来事がなければ今の自分はなかったと思います」
そこから野手に転向した阪本はひたすら守備の練習に打ち込んだ。当時、自分自身では実感がなかったが、上級生が阪本のバッティング練習を見てすごい1年生が入ってきたと思うほど彼のバッティングセンスは群を抜いていた。1年生ながら試合に出してもらうこともあったが、甲子園ではスタンドから自チームを応援していた。グラウンドでプレーする先輩たちを目の当たりにして、大歓声の中で自分もプレーしたいという思いが彼の中で膨れ上がる。しかしながら2年生の時も高校生最後の夏も、彼は目指してきた甲子園のグラウンドに立つことはできなかった。
【目指し続けた日本一の道】
高校卒業後、大学進学も選択肢の1つにはあったが、プロになることを目指していた阪本はレベルの高い社会人野球を選択する。3チームのセレクションを受け、当時岐阜県で日本野球連盟所属の社会人野球部を持つ、昭和コンクリート工業に入社することとなった。
「初めは年齢層も幅広く、あまりのレベルの高さに正直、このチームでやっていけるのか不安でいっぱいでした。体格も技術面もまったく自分とは違うと思いましたから」
入社当初から練習面の厳しさやレベルの高さを痛感した阪本は、3年が経過してもなかなか試合に出場する機会もなく、このまま野球を続けるかどうかを迷っていた。しかし大好きな野球をこのまま断念したら悔いが残ることや、やりたくても引退していった仲間たちのことを思い返して気持ちを入れ替える。そして阪本は都市対抗野球本大会という晴れ舞台でプレーすることを目標に見定めた。そこからチームの4番打者で、他チームから補強選手として毎回選ばれていた先輩から阪本はトレーニング方法や打撃練習をマンツーマンで教わった。入社5年目、ようやくレギュラーを勝ち獲った阪本は東海地区予選を勝ち抜き、目標としていた都市対抗野球本大会の舞台に立つことができたのである。さらに8年目の時にはチーム初となるベスト8進出も果たし、大会で本塁打を放った阪本は、大歓声の中でダイヤモンドを1周したことは忘れられない思い出だと語る。しかし翌年の春、チームがこれからという時に思わぬ事態が待ち受けていた。それはその年の都市対抗野球大会を最後に、野球部が休部となることが決まったのである。
その後、阪本と数名の選手は県下でも実績のある西濃運輸に移籍することが決まった。新たな環境のもとで、今までライバルとして戦ってきた選手には絶対負けられないという強い気持ちで、阪本は新チームでのレギュラーを目指す。それまでプロを目指していた阪本であったが、年齢的にもプロの道は厳しいと判断し、社会人野球で日本一になることを新たな目標に決める。そして移籍後も阪本のバッティングセンスは即戦力として認められ、レギュラーの座を獲得することとなる。しかしチームは2003年から6年連続で都市対抗野球本大会へ出場するも本大会での成績は振るわず、さらに2012年から2年連続で本大会出場の機会を逃すといった壁にぶつかっていた。それから選手一人ひとりが勝つためにはどうすれば良いか考えられるチームに変わり、2014年東海地区予選では負けなしの4連勝で第1代表の座を獲得した。そして本大会でも予選の勢いそのままに決勝戦まで駒を進め、阪本は目指してきた日本一まであと1勝という場面を迎えていた。
「長い間、野球をやってきてやっとここまで来たなという思いでした。野球をやめずに続けてきて本当に良かったと感じました。観客席を見つめて自分はこのためにやってきたんだと、後は今までやってきたことを出し切るだけだと思って決勝戦に臨みました」
そして最終回、残りアウト1つの場面でベンチにいた阪本の目には熱いものがこみ上げていた。そこには色々な苦労をしながらも野球を続けてきた思いや、大好きな野球を仲間と一緒にここまでやって来られたという思いが詰まっていたのだ。大会を通じて、阪本は4割6分7厘という高い打率をマークし、打撃賞受賞と優秀選手に選ばれた。決勝戦では先制点に絡むヒットを打ち、さらには決勝点のタイムリーも放つ活躍ぶりであった。阪本が長年スタメンとして起用されるのは、チャンスの場面で期待に応えるバッティングがあるからだ。
「チャンスの時に、絶対打ってやるという気持ちがあまり強すぎると駄目だと思います。基本に忠実に今まで練習でやってきたことをイメージしながら、いかに平常心で打席に入ることができるかを大切にしています」
今年の都市対抗野球大会は優勝チームながらも、挑戦者として良い意味で楽しみながら、試合に臨んだという。連覇の夢は叶わなかったが、野球を通じて応援してくれる人達にもう一度、日本一の時のような感動を与えられることができる野球をこれからも目指したいという。勝負の世界で常に結果を出し続け、社会人野球の中で数少ない20年を超える現役選手として活躍する、彼の今後の野球人生をこれからも見守り続けたい。
(文中・敬称略)