活躍する社員
西濃運輸空手道部 矢野彩さん(2016年06月24日)
Profile
矢野 彩(さえみ)
西濃運輸空手道部(西濃運輸総務部保険課)
愛媛県出身 28歳
5歳で地元の空手道場に入門してから、高校まで同じ道場で稽古を受ける。中学校時代ら全国大会の常連で、高校2年生ではさいたま国体で3位、大学では毎年インカレに出場し2年連続2位等の好成績を残す。社会人になってからも全日本実業団で2位になるなどの実力者である。「気迫を全面に押し出した、力強い立ち姿が美しい」との定評がある。
空手(空手道)は琉球王国時代の沖縄を起源とする競技である。「力強さ」「技の正確さ」「形の意味の把握」を総
合的に判断して評価する「形」と、二人の選手が競技規則を守りながら、突きと蹴りの攻撃技術をポイントにより競う
「組手」、2つの種目に分かれる。数多くの流派があり、糸東流、松涛館流、剛柔流、和道流が4大流派と呼ばれ
ている。糸東流を流派とし、「形」競技において日本を代表する選手が、今回紹介する矢野彩だ。
【道場とともに過ごした18年間】
瀬戸内海に浮かぶ島々の一つに愛媛県今治市大島がある。そこは空手道、剣道、野球が盛んな土地柄で、大島に住む子供の大半がいずれかの競技を習うそうだ。矢野はその大島で生まれ育った。4人兄弟の末っ子である矢野が空手道を始めたきっかけは、一番上の姉であった。14歳離れた姉が高校の大会で活躍をする姿を見てカッコイイと思ったという。大会で入賞した姉がトロフィーや盾をもらう姿を見た時、矢野は隣にいた父親に「私もトロフィーや盾が欲しい」と言ったそうだ。翌日には姉が通う道場に連れていってもらい、道場の門を叩くことになる。「やると決めたら、すぐやる、とことんやる」矢野は小さい頃から自分の「氣持ち」を大切にしてきた。
矢野が進学した中学校には空手道部がなかったため、陸上部に入部したものの、矢野にとって最も熱中出来ること、それはやはり空手道であった。矢野は中学校に進学した頃から、「組手」「形」2つの種目のうち「形」をよく練習するようになった。県内では敵なしであった矢野は全国大会で優勝することを目標としていたが、2年生の全国大会で予選落ちを経験する。全国のレベルの高さを目の当たりにした矢野は強い衝撃を受け、3年生の全国大会ではとにかく入賞することを目指した。その頃から、矢野の猛練習の日々が始まった。中学校が終わる夕方から夜9時まで他の生徒と同様の練習をこなし、その後一人道場に残って、更に1~2時間、先生とマンツーマンで「形」の練習をした。また先生が仕事で不在の時には、家で自主練をするなど、土日、夏休み、冬休みが全く関係のない、ひたすらに空手道に励む日々を過ごしたという。その成果もあり、3年生の全国大会では、目標としていた入賞を果たすことが出来た。
その後、今治明徳高校に進学したが、当時今治明徳高校には空手道部がなく、矢野が大会に出場出来るようにと校長先生が設立してくれた空手同好会に所属する。中学校の頃から県内に敵なしの矢野は、高校でも県内では優勝出来
るものの、インターハイなど全国レベルではなかなか結果を残すことが出来なかった。矢野は、高校3年間の経験から更に上を目指すためには、自分自身の「形」をより進化させる必要があると痛感したのであった。
【人生を変えた憧れの存在との出会い】
矢野はさらに上を目指すため、今以上にレベルの高い環境での鍛錬を望むようになる。そのような中で、彼女が指導者として考えたのが、長谷川伸一先生という存在であった。長谷川先生は、彼女と同じ流派であり、世界大会団体形の部で6連覇を果たしている。そんな長谷川先生が開催している、長谷川空手スクールに通うため、このスクールがある山梨県の山梨学院大学に進学することを決意する。
「全国レベルの道場生も多く、長谷川先生の稽古は楽しかった」この言葉の通り、矢野は長谷川空手スクールというレベルの高い環境の中で技を磨き、1年生では予選落ちだったインカレの成績も3年生、4年生には連続2位になるほど上達し、団体形部門では見事優勝を果たした。
そこまで結果を残してきた彼女にとって、唯一の心残りが個人で優勝出来なかったことである。中学校の頃から頂点を目標にしてきた彼女にとって、それは簡単に諦めることが出来るものではなく、社会人では頂点になることが新たな目標となった瞬間でもあった。
社会人で頂点になる為に、空手道に専念出来る環境を探していた矢野にとって大きな転機が訪れる。西濃運輸が3年後に控えるぎふ清流国体に向け、空手道の部員を募集しているという話を聞いたのである。西濃運輸に入社すれば、自分が望んでいた空手三昧の生活が出来ることに矢野は魅力を感じたが、国体に出場出来る選手は一人であり、切磋琢磨して国体までの3年間努力し続けたとしても、矢野自身も憧れの存在であった、時岡由佳がいる西濃運輸では国体に出られない可能性があることから、有力者がおらず国体に出場が見込める他の県に進むことを提案する周囲の人間もおり、当初は悩んだという。
しかしながら、憧れの先輩である時岡がいることと、西濃運輸の監督が、形の第一人者であり、世界選手権4連覇の実績を持ち、憧れの存在である若井敦子であったこと、そして、ここまで空手道に理解のある会社もないことが決めてとなり、西濃運輸に入社することを決意した。
西濃運輸に入社後、文字通り空手三昧の日々を過ごした矢野であったが国体に出ることは叶わなかった。元々国体を目標に3年間を区切りと考えて入社した部員が西濃運輸を離れる中、矢野は新たに発足した西濃運輸空手道部で引き続き,
社会人で頂点を目指す道を選び、日々切磋琢磨した。その後開催された第30回全日本実業団空手道選手権大会で2位、第32回で3位など優勝まであと一歩のところまで迫るものの、個人ではまた頂点に立つことは出来なかった。しかし、第31回全日本実業団空手選手権大会の団体形の部では、見事優勝を果たすことが出来た。
あと一歩のところで優勝を拒まれたことが矢野の「氣持ち=やる気」をさらに強くする。その後さらに稽古に励み、過去5年間ずっと2位止まりが続いていた東海地区大会で昨年1位となり、社会人になって初めて全日本選手権に出場することが出来た彼女が、次の目標とするのは頂点に立つことである。その目標を実現するために、今日も厳しい稽古に励んでいる。
子供の頃から今まで、空手三昧で過ごしてきた矢野の座右の銘は「氣持ち=やる気」。空手を始めた時から「頂点に立つ」ために「氣持ち」だけで突っ走ってきたと矢野はいう。彼女は目標を達成する為に、いつでも、「やると決めたら、すぐやる、とことんやる」そのスタンスを常に貫き続けるのだろう。矢野が「社会人で頂点になる」為に越えなければいけない壁は高いかもしれない。だからこそ、彼女の心の中で燃える「氣持ち=やる気」の炎は、よりその強さを増しているのではないだろうか。
(文中・敬称略)